役者への道
───早速ですが、役者になられたきっかけをおうかがいしたいと思います。最初はミュージカルからスタートされたとおうかがいしましたが。
いや、それは嘘ですよ。(一同笑い)
最初は普通のお芝居、古典劇からです。薔薇座に入る前は、高校卒業後一浪して東宝芸能アカデミーに19歳から2年間通っていました。
───高校生の時に演劇部に在籍していらしたのですか?
いえ。中学、高校ではお芝居とはまったく縁の無い学生生活を送っていました。だけど小学生の時、学芸会で演劇を上演する時には主役や出番の多い役を演じる機会が多かったという事が、今となってはきっかけだったのかもしれません。
受験の時に、芝居の世界に入ってみたいという気持ちが強くなってきたので高校の先生に相談したのですが、「何考えてんだ!」って怒られちゃいました。それでも何度も相談しているうちに「両親を説得したら考えるから」って言われたんです。そこで今度は両親とぶつかることになるのですが、何とか説得することができたのです。
その先生は早稲田大学出身で、東宝の映画のプロデュースをされている方と知り合いだったので、そのご縁で東宝芸能アカデミーを紹介していただいて、一期生として入学できたんです。
それから2年間、月曜から金曜の朝9時から夕方5時まで、色々な芸事をやっていました。その時に新劇の演出家に出会って、面白そうだったのでその時は新劇の道に進もうと思ったんです。東宝アカデミーでの2年が終わって、文学座と劇団雲の2つのオーディションを受けたのですが、両方とも落ちてしまったんです。どうしようかと悩んでいた時に「テアトロ」という雑誌をパラパラと眺めていて、1年くらいの期間で通える所があったので、ここにお世話になろうかなと入ったのが、劇団薔薇座でした。
───そこで、野沢那智さんと出会ったんですね。
そうです。最初に「那智」って聞いて、女性なのかもしれないと思ってたんです・・・薔薇座ですし(笑)
そうしたら、全然違うんだもん!サングラスかけたアヤシイ男が出てきて驚きましたよ。(一同笑い)
───その頃から厳しかったんですか?
そうですね。既に芸能人としての顔と、自分が率いている劇団の主宰としての顔を持っていて、稽古場では厳しい人でしたね。当時は20人くらい劇団員がいて、有本欽隆さんと那智さんの奥様の成瀬麗子さんが看板役者でした。ですから僕は、ミュージカルスタートの役者ではありません(笑)
───失礼しました(笑)
師・野沢那智
───その薔薇座での思い出ですとか、何かエピソードをお聞かせいただけますか?
レッスンの時、那智さんは発声や滑舌を担当していたのですが、とにかく厳しくて怖かったですよ。当時は新橋にある烏森神社の境内を借りて稽古場にしていたのですが、何故か境内にフェンシングのフルーレが置いてあって、それを振るいながらレッスンをするものですから怖かったですね。他にも灰皿やチョークが飛んできたりしていました。僕なんかが避けると「何で避けるんだっ!!」って怒鳴られたものでした。(一同笑い)
そんな事がありながらも、1年だけのつもりが気付いたら17年いましたね。
───声優としては、やはり薔薇座からのデビューになったのですか?
そうですね。すでに那智さんが声優として活躍されていましたから、「そろそろお前もやらないか?」と言われて紹介していただいたのが、僕が24歳の時でした。
─── 一番最初の現場はどんな作品だったのですか?
『科学忍者隊ガッチャマン』でした。いわゆる番組レギュラー(固定の役ではなく、各話数毎に出てくる様々な役を演じる事)でした。今と違って予め台本が貰える訳ではなく、当日に台本をいただいて、役をチェックしてから収録をしていました。大先輩がズラーっといらっしゃる中、台本の見方も何もわからずスタジオに入りました。
───那智さんからは何かアドバイスをいただけなかったのですか?
全くないですよ。紹介したら、「じゃ、行ってこい!」で終わりでした(笑)
更に、最初に映像を流す時に皆さん声を出さないので、どのシーンをやっているのかも分からないんですよ。ギャラクターの隊員としてガッチャマンと戦うわけですが、何が何だかわからないままリハーサルが終わってテストになり、今度はどのマイクを使って良いのかもわからないですし、喋り出しても画面に合わなくて悔しい思いをしました。で、喋るのが遅くて合わなかったからと思って少し早く喋ったら、今度は早過ぎて合わなくて、また怒られちゃいました。(一同笑い)