「納谷六朗さんのこと」
谷 育子
大先輩です。
私が、声の仕事をさせていただくようになった時には、納谷さんは、あの繊細で透明感のある声で第一線で活躍していらっしゃいました。
ご一緒させていただいた作品は、あまりありませんでしたが、親しくお話することもなく、遠くからご挨拶する程度でした。記憶によると、当時のスタジオのお仲間の噂話によると、めったにNGを出さない方だったそうです。そしてお子さん(現社長)を連れている姿をよく見るとのこと、子煩悩でもあったようです。
しかし、私には、近付きにくい存在でした。
何年か後に、江崎プロダクション、今のマウスプロモーションにお世話になり、ようやくそこで初めて身近にお話する機会が出来ました。三十年前に、事務所が、声優の養成所を立ち上げ、私も講師として参加することになりました。納谷さんとコンビでアテレコの時間を持ちました。人数は二十人足らず、テキスト、資料も手作りでした。
当時、コピー機はありましたが、1ページ1枚ずつコピーして、折って一冊一冊作りました。コピーで思い出しましたが、若い頃、ガリ版のバイトをしたことがあるとかで、癖のないきれいな字をお書きになっていましたね。台本を作る時、用紙の角をキチンとあわせていらっしゃいました。アバウトな私は、「こりゃ、大変!」と思ったものでした。やはり最初に思った通り「真面目な、いや、クソ真面目だ。これからどう付き合ったらいいか」真剣に考えたものです。
しかし、四月、五月と二時間の授業が終わると、四谷三丁目の居酒屋へ生徒達と飲みに行く習慣が出来上がりました。発見しました。お酒がお好きなのでした。そして、おしゃべりも。このおしゃべりは、大変面白くて、それもそのはず、後になって知ったのですが、納谷さんは、落語大好きな方でした。昔のアテレコの現場の話やら失敗談やら先輩方の話、お芝居の話。生徒達は、いい話を沢山聞いた事と思います。私も、納谷さんの新しい発見をしました。本当は恥ずかしがり屋で、甘えん坊で子供みたいな面をお持ちでした。ここで一言、言わせてください。どうして初めから、ご自分を全開なさらなかったのでしょう。格好付け屋だっておっしゃっていましたが、そんなの流行りませんよ。随分ご自分を抑えていらっしゃったのですね。若者達には、素直な納谷さんの姿を分かっていたようで、大勢が納谷さんのファンでした。
信濃町から東新宿に事務所が移り、居酒屋通いもなくなりました。納谷さんも私も歳をとり、はじめは、敬語を使っていた私もいつの日からか、ため口を利くようになり、クラスの数も増えていきました。そして、所属若手のために「ラジオもどき」なる勉強会を作り、大先輩として参加していただきました。
今年、井上ひさしさんの作品に出ていただくはずでした。お稽古に一度出てくださいましたが、それが最後になりました。こんな事になるなんて、考えてもみませんでした。
野球がお好きで、シアトルマリナーズのイチローさんのファンで、帽子が好きな納谷さんは、その野球帽をかぶっておられました。
そのキャップをかぶった姿が、事務所のドアのガラスに映るようで、たまりません。
今年も、そしてここ数年の間、素晴らしい先輩方が逝かれました。あとに続く若者達が、沢山沢山、先輩達をのり越えて、声の世界を盛り上げていって欲しいと思います。
納谷さんもそう望んでいるはずですから・・・。